Sigmund Freud
人の心に興味を持つ前から、フロイトの名前と彼が精神分析の創始者であることだけは知っていました。
最近、少しだけ心理学なるものの輪郭が見えてきました。となると、やはりフロイトの人となりや考えを垣間見たくなってくるわけで、、、
これは専門的な研究でも報告書でもありませんが、私なりに、フロイトをまとめてみました。
年表プラスα 精神分析のルーツ メスリズム メスメル 催眠術 シャルコー
ヒステリー ヒステリシス ヒステリー人格 ドン・ファン 催眠から精神分析 アンナ・O(ベルタ・ボッペンハイム)
ブロイアー アンナの症状 抑圧 自由連想 ヒステリー エディプス(オイディプス)・コンプレックス 無意識
二重(多重)人格 夢・夢分析 夢の仕事 性欲の変遷 性的倒錯 自我とエス エスとイド トーテムとタブー
トーテミズム 幻想の未来 宗教心理学 欲動とその運命 ナルシシズム 自我リビドー エロス
フロイトの患者たち(ドーラ,ハンス,鼠男,シュレーダー,狼男,) 考古学と精神分析転移 転移神経症 転移抵抗
精神病 神経症 パラノイア(妄想症) 妄想 妄想的人格 ウィーン脱出 フロイトの死 フロイトと男たち
フロイトと男たち フロイトの素顔(子煩悩、 音楽嫌い、 文学、 蒐集、 三角関係)
その他エピソード
フロイトの父 母 フロイトの前髪と命名 幼少期 学校時代 大学時代 恋愛 ユダヤ人フロイト 医者として
フロイトとヒステリー フロイトと催眠 結婚と開業 花瓶 母の浮気 シュテファン寺院
メスメルとモーツァルト ナイル河の水源 furとbis
モーゼ像 ダ・ヴィンチ モナリザ タロック おしゃれ きのこ 食べ物 葉巻
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| 1856年 | 5月6日 オーストリアモラヴィア地方(現チェコ) のフライベルクに生まれる |
父-ヤコプ-ユダヤ人,貧しい毛織物商人,40歳後半 母-※アマリエ20歳-ヤコプの3人目の妻 |
| 1859年 | ライプツィッヒへ移住 | |
| 1860年 | ウィーンのユダヤ人居住区に引っ越す | (この頃のウィーンは開発途中) ※フロイトはピアノが嫌いだったそうな ※オーストリア皇帝「ユダヤ人に平等を保障」 (ウィーン大学がユダヤ人の入学を許可) |
| 1866年 | ウィーンのギムナジウム(中等部)に入学 | (オーストリア-プロシア戦争勃発) |
| 1873年 | ギムナジウム(高等部)卒業 ウィーン大学医学部へ入学 |
|
| 1876年 | ブリュッケ教授の生理学研究所に入る | (ベル電話発明) |
| 1877年 | 『ウナギの生殖腺の形態と構造について』 『ヤツメウナギの 脊髄神経節および脊髄について』 |
|
| 1880年 | (21歳の※アンナ・Oがブロイアーに 治療を受け初める) |
※ブロイアーはフロイトの友人 (エンゲルス『空想から科学へ』) |
| 1881年 | ウィーン大学で学位を取得 | 生理学研究室に残り、ザリガニやウナギの研究をする |
| 1882年 | マルタ・ベルナイスと婚約(26歳) 『ザリガニの神経線維 および日神経細胞の構造について』 |
結婚のため臨床医になる決心をする. インターンとしてウィーン総合病院に勤務. 皮膚科、眼科⇒精神・神経医学を専門とする (反ユダヤ主義強まる) |
| 1883年 | マイネルトの精神医学教室に勤務 | 皮膚科へ移る (コッホがコレラ菌発見) |
| 1884年 | 神経科に移る(医長) コカインの効果を知る 『コカについて』 |
コカインの効果を知る ※フェビアン協会結成 |
| 1885年 | 眼科⇒皮膚科 9月ウィーン大学医学部神経病理学の 私講師になる-無給(29歳) 10月パリに留学 ⇒ |
(ウィーン大学新校舎完成) パリのサルペトリエール病院の ジャン・マルタン・シャルコーに師事するため |
| 1886年 | 4月開業-神経症治療 ⇒ 9月結婚 『男性のヒステリーについて』 |
自らが開発した神経症治療法実践と 生活のため開業したといわれている. しかし、金持ちの患者が来るまではやはり、、、 ※結婚に先立ち、 「贖罪の家」という高級マンションに引越す |
| 1887年 | 催眠暗示を採用 | ※長女マティルデ誕生 ※フリースを知る |
| 1889年 | 催眠術の技術修得のためナンシーへ | ペルネイムの実験を見学 ※長男ジャン=マルティン誕生 (パリの万博、エッフェル塔建設)) |
| 1890年 | ブロイアーにヒステリー研究の協力を要請 | フリースと不定期の会合始める (ドイツのビスマルク引退、初のメーデー) |
| 1891年 | ベルクガッセ19番地に引っ越す ⇒ 『失語症の理解のために』 |
※次男オリヴァー誕生 ※ここが50年間フロイトの住まいと仕事場 現在はフロイト記念館 |
| 1892年 | 催眠暗示をやめ自由連想へ | ※次女ゾフィー誕生 |
| 1893年 | 『ヒステリー現象の心的規制について』 | ※シャルコー死去 ※三女アンナ誕生 |
| 1894年 | ブロイアーとの共同研究終了 | ブロイアーとの関係悪化 (日清戦争) |
| 1895年 | 7月「イルマの注射」の夢を見る 『ヒステリー研究』出版(共著) ⇒ 『科学的心理学草稿』 |
※三男エルンスト誕生 ブロイアーとの共著 |
| 1896年 | 精神分析という言葉を初めて用いる ウィーン医師会で講演 『ヒステリーの原因について』 『神経症の遺伝と病因について』 |
※ブロイアーと決裂 ※フリースと接近 ※父死亡、マルタの妹ミンナ家族となる |
| 1897年 | 自己分析に着手 『小児脳性麻痺』 |
※フリースと密接になる |
| 1898年 | 幼児性欲について発言 『神経症の病因における性』 |
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| 1900年 | 『夢判断』公刊 ⇒ 夢について大学で講義(出席者3人) |
※実際は1899年秋ライプツィヒとウィーンで出版 ※フリースと衝突 |
| 1901年 | 『日常生活の精神病理学』 (フロイトの生前、最も売れた本) |
※ローマへ旅行 -ミケランジェロのモーゼの彫刻をみる (チエホフ『三人姉妹』) |
| 1902年 | 「心理学水曜会」をつくる シュケーテル、アドラー等 |
※フリースとの交際終結 |
| 1903年 | (ライト兄弟飛行機発明) | |
| 1904年 | 『ドーラ分析』 | ※チューリッヒのブルグヘルツ精神病院の ブロイラー、ユング、アイティンドン、アブラハム等 がフロイトを話題とする (ロダン『考える人』) (日露開戦) |
| 1905年 | 『ジョークと無意識との関係』 『性欲論三篇』 |
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| 1906年 | ※ユングと定期的な文通開始 ※オットー・ラングと会う |
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| 1907年 | 『W・イエンゼンの<グラディヴァ> における妄想と夢』 |
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| 1908年 | 「国際精神分析学会」 ⇒ 『性格と肛門愛』 『幼児の性に冠する考えについて』 『詩人と空想すること』 |
※ブロイラー、ユング等がフロイトを中心に ザルツブルグで開催 (レーニン『唯物論と経験批判論』) |
| 1909年 | 渡米しクラーク大学で講演(ユングも) 『五歳の男児の恐怖症の分析』 |
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| 1910年 | 「国際精神分析学協会」組織 『レオナルド・ダ・ヴィンチの 幼児期の一記憶』 |
※初代会長はユング ※機関紙編集担当-アドラー、シュテーケル |
| 1911年 | 「ワイマール大会」 | ※アドラー協会を脱退し 「自由精神分析協会」を結成 (表現主義はじまる) |
| 1912年 | 雑誌「イマーゴ」創刊 | ※医学以外の分野への精神分析の応用 ※ユングとの関係悪化 ※シュケーテルが協会脱退 (第一次バルカン戦争) |
| 1913年 | 「ミュンヘン大会」 『トーテムとタブー』 『小箱選びのモティーフ』 |
※ユングと決裂 (ニジンスキー『春の祭典』) (プルース『失われた時を求めて』) |
| 1914年 | 『精神分析運動史』 『ナルチシズム入門』 『ミケランジェロのモーセ像』 |
(第一次世界大戦勃発) |
| 1915年 | 「精神分析学入門」の講義を始める 『欲動とその運命』 『無意識』 |
(アインシュタイン−一般相対性理論) |
| 1916年 | 『精神分析入門』 『<詩と真実>中の少年時代の 一つの思いで』』 |
(ダダイズム始まる) |
| 1917年 | (ロシア革命) | |
| 1918年 | 「第5回ブタペスト大会」-会長フェレンツィ | (第一次世界大戦終結) |
| 1919年 | ウィーンに国際精神分析出版所設立 『子どもが打たれている』 |
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| 1920年 | 「ハーグ大会」 『快感原則を超えて』 |
(国連設立) ※娘ゾフィー死去 |
| 1921年 | 『集団心理学と自我の分析』 | (中国共産党結成) |
| 1922年 | 口蓋の癌を手術(以後33回) 「ベルリン大会」 |
(ソビエト連邦成立) (シェーンベルク12音階) |
| 1923年 | ロマン・ロランと文通 『自我とエス』 |
(ピアジェ『言語と思考』) |
| 1924年 | 「ザルツブルク大会」(ロマン・ロランも) | ※ブルトン『シュルレアリスム宣言』 |
| 1925年 | 「ホンブルク大会」 『自らを語る』 |
※ブロイアー、アブラハム死去 (フィッツジェラルド『偉大なるギャッツビー』) |
| 1926年 | 国際精神分析学協会会長に アイティンゴが就任 『抑制、症状、不安』 |
|
| 1927年 | 「インスブルック大会」 非医師分析の問題広がる 『幻想の未来』 |
※アーノルド・ツヴァイクと文通 ※フェレンツィとの関係疎遠に |
| 1928年 | 『ドストエフスキーと父殺し』 | (ラヴェル『ボレロ』) |
| 1929年 | 「オックスフォード大会」 | (世界大恐慌) ※マリー・ボナバルトの協会援助を得る ※フェレンツィ協会から退く |
| 1930年 | フェレンツィと見解が分かれる 『文明への不満』 |
癌が完治不能と判明 (ケインズ『貨幣論』) |
| 1932年 | 「ヴィスバーデン大会」-会長ジョーンズ 『属・精神分析入門』 |
(ヒトラー独裁内閣成立) (満州国成立) |
| 1933年 | 精神分析関係の書物禁書 ⇒ | ※ヒトラー政権成立 |
| 1934年 | 「ルツェルン大会」 モーセと宗教について考察 |
※ドイツの精神分析関係者あいついで亡命 |
| 1935年 | 王立医学会名誉会員に | |
| 1936年 | ゲシュ多ボ国際精神分析出版所の 全財産押収 アインシュタインとの往復書簡(80歳) 「マリネバート大会」 |
(ミッチェル『風邪とともに去りぬ』) |
| 1937年 | マリー・ボナパルト フロイトのフリース宛て書簡集を入手 |
|
| 1938年 | ナチス国際精神分析出版所を没収 ロンドンに亡命 「パリ大会」 |
(サルトル『嘔吐』) |
| 1939年 | 『モーセと一神教―論文三篇』 『精神分析学概説』(絶筆) 癌再発⇒安楽死を願う 9月23日 ロンドンで死亡 |
(第二次世界大戦はじまる) |
■古代における心の病の見方
「魂が体からさまよい出て行方不明になった状態」
治療<魂を探し出し元の場所に戻してやる>
「タブーを破って神の怒りをかった状態」
治療<神の怒りを鎮める>
「敵に呪われている状態」
治療<呪い返して敵を倒す>
1734〜1815
スイスとドイツの国境近くで生まれた.
動物磁気による治療法であるメスメリズムの創始者.
初め、神学を学び、後に、ウィーン大学に入って医学を学び、ウィーンで医者となる.
(学位論文のタイトル-「人体の疾患に及ぼす惑星の影響について」)
メスメルは医者を開業し、金持ち未亡人と結婚し、大きな屋敷をかまえた.
星が人間の運命を支配するという占星術の原理を磁石の力によって説明しようとして、
磁石を用いて人間の体をたたいたりなでたりしているうちに、
催眠状態を起こすことを発見した.
そして、動物や人間にも磁石の働きに似た作用を持つ「動物磁気」があると考えるようになる.
しかしこの考え方は、ウィーンで反対され、1778年パリに行った.
(一説に、「動物磁気療法」がセクハラ疑惑をかけられそれがスキャンダルとなった」とも、、)
「科学ブーム」に浮かれていたパリでは、高級住宅地の真ん中に診療所を開き、
彼の「革命的新医術は」は大当たり、貴族やブルジョワが列を成して押しかけた.
一人ひとりを治療している暇のなくなったメスメルはバケ(大きなカシの桶)を使った集団治療を始めた.
水の入ったバケの中や周りにガラスや石、鉄の付属品をつけておく.
桶の横からは20本ほどの鉄棒が出ていて、患者たちはそれを握る.
病人(ヒステリー患者等)たちを、紐で結び合わせ、電気回路のようなものをつくる.
その回路を動物磁気が流れる、というものだった.
音楽や照明、鏡などの調度品、彼自身の奇妙な服装(教祖のような)や態度などによって、
患者は発作を起こす、そしてその発作がおさまると症状が消えているのだった.
(このように人工的に発作を起こし症状を消滅させる治療法を「分利法」という.)
フランス政府は、学者などからなる特別の調査機関を設けて調べた結果、
暗示による催眠状態の存在は認められたが、
金属磁気と同じような作用を持つ動物磁気の存在は否定され
「ペテン」の烙印を押された.
彼のほうから積極的に動物磁気の存在を立証できなかったため、次第に不評判になり、
スイスに帰って亡くなった.
暗示療法の創始者とされる.
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シャルコー Jean Martin Chrcot
1825〜93年 フランスの精神医学者
ヒステリーおよび催眠術に関する講義によって世界的に知られた.
彼は、
震顫麻痺(体が震える病気で彼自身もそれにかかり始めていた)の発見、
多発性硬化症
シャルコー病(シャルコーは脳脊髄硬化症とよんだ=筋萎縮性側索硬化症)
(脊髄を中心に、脳皮質から筋肉にいたる運動神経路の変性がある病気)等の、症状を発見.
シャルコーいわく
「医療において医師が、すでにわかっているものだけに注目するのはいかがなものか」
「新事実、つまり新しい病気(といっても実際は人類同様に古いものだが)に眼を向けるということはすばらしい」
精神病理学、心理療法、精神分析などに大きな影響を与えた.
彼の門下には、
ビネー、フロイト、ジャネー等がいる.
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ヒステリー hysteria
語源的には“子宮”を意味するギリシャ語.
ヒポクラテスは湿った場所を求めて子宮が身体中を動き回る病気だと考えた.
「ヒステリー発作に苦しんでいる女性には、くしゃみの突発が好ましい結果を生む」
(くしゃみで、子宮が元の場所にもどる、っていうこと)
ヒステリーの原因は「子宮」か「脳」かという論争もあった.
17世紀(中世)には、悪魔にとりつかれた病気と考えられていた.
シャルコー以来、フランスの精神医学が研究を進め、ジャネーの研究は有名である.
フロイトの研究は、その総括をし、今日の研究の出発点をなしている.
ヒステリー反応は、過去の特殊な抑圧された経験が身体的症状に転換されたものと考えられる.
そのため、転換ヒステリーとよばれるのがふつうである.
しばしばみられる身体症状は、
身体のいろいろな部位の痛み、四肢の麻痺などである.
眼が見えなくなったり、聾・失声を起こしたり、臓器の機能不全を起こしたりする.
その症状も患者によってみな特異性をもっている.
しかし、解剖的・生理的にはまったく病因になるものはなく、心理的な病気である.
一見、仮病のようでもある.
ヒステリーの発作には、夢と同じように一時的過程が劇的に表現されることがある.
フロイトはエディプス的葛藤の解決が未完成なために起きるものと考え、
抑圧と退行が主要な防衛機制になっているという.
ヒステリーになることによって得られる二次的利得のために、どんな不便があっても、
その不便さにまったく無関心であったりする.
ジャネーはこれを la belle indifference とよんでいる.
また、不便さ、痛みは、症状によって部分的に満足された
願望に対する自虐的な処罰であると解されている.
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ヒステリシス hysteresis
履歴効果のある現象を意味する.
金属が磁化するときの特性曲線にこうした傾向がみられる.
一般に、一定の力をある方向に加えたときに起こった変化が、逆の方向に同じ力を加えても復元しないとき、
その復元の度合いが、ヒステリシスの強弱である.
成体の行動にも広く見られる現象である
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ヒステリー人格 hysterical personality
芝居じみた行動をし、わがままで自分本位なところがあり、露出症てきである.
感情は、不安定で、情緒的に爆発しやすく、性的発達は未熟で、
なんでもないことも性的に関係付けて考える.
男性的主張が顕著である.
女性の場合、自分が男性になろうとし、劣ったものにみられないようにする.
幼児期の過保護のために、他人の注意をひきつけようとする傾向も強い.
願望を充足させる空想が強く、現実を官能的・性的に曲解しやすいために、
反動的に性的衝動を抑圧せざるを得なくなる.
男性的になる理由もここにある.
男性に対して誘惑的な行動を示すヒステリー的な女性では、攻撃の衝動と依存的態度が含まれている.
露出的傾向が強く、うそをよくいい、注意をひこうとする女性の場合、
子どもの頃、夜尿、指しゃぶり、空想上の友達などの経験を持つものが多い.
(ドン・ファン Don Juan)
ドン・ジュアンともいわれる.英語のSir Johnにあたるスペイン語.伝説上の好色な放蕩者.
ティルソ・デ・モリーナ(1571〜1648)によって『セビリヤの色事師と石の招客』に描かれた人物.
以来、多くの作家や音楽家によって扱われた.
心理学的には
自分の劣等感を隠すために、性的な事柄に熱中し、
例えば、特定の女性に愛情を持ち続けずに、自分の性的能力を誇示するため、
次から次へと新しい女性を性的に刺激することに熱中することをいう.
自己愛的で愛情の喪失を恐れる.同性愛の防衛を意味することもある.
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アンナ.O(ベルタ・パッペンハイム)
フロイトの友人ブロイアーの患者.
ブロイアーによるアンナ
「知能が高い」・「記憶力抜群」・「人並みはずれた教養と才能の持ち主」・「心優しい慈善家」
「驚くほど鋭い知性と鋭い直観力があり、そのために彼女をだまそうとしても必ず失敗する」
「単調な生活のために知的欲求不満に陥り、白昼夢に耽る傾向があった」
「彼女のヒステリーを促進させたのは父親が不治の病にかかったこと」
「献身的な看病の結果、食欲減退し衰弱、神経性の咳が始まった。」
「その他、斜視、頭痛、視覚障害、感覚喪失、局部麻痺、意識が途切れる」
「また黒い蛇の幻覚を見る、言語障害、人格分裂がはじまり、父の死後さらに悪化」」
後に、ベルタ・パッペンハイムという先駆的なソーシャル・ワーカーとなる.
婦人参政権運動の闘士であった.
抑圧 repression
精神分析における最も重要な概念.
抑圧とは意識することに耐えられないもので、
“衝動を代理しているもの”“衝動を表す言葉”を意識から追放し、排除することを意味する.
これをフロイトは「意識から遠ざけること」という.
ヒステリー、神経症に最も典型的に認められる防衛機構とみなされる.
意識から追放されたものが無意識的なものであるが、
一度だけ意識から追放すれば、それは無意識的なものになってしまい、
再び意識に現れないと言う意味ではない.
いくら払いのけても衝動のある限り、抑圧によって衝動は抹殺されてしまうわけではないから、
耐えられるものは意識に現れてくる.
だから絶えず抑圧のためにエネルギーを消費することになり、疲労せざるを得ない.
この不経済なエネルギーを消費しなくてもすむように抑圧を完成するためには
さまざまな心的過程を仮定する必要がある.
例えば、
検閲という過程によって耐えられないものは、許容しうるものに変えられてしまうというものである.
こうした抑圧の考え方の中で最も重要なものは原抑圧である.
これは、
意識的に耐えられないものを排除する抑圧より以前に既に原抑圧が起きており、
無意識的なものがつくられ、その無意識的なものが耐えられないものをひきつけようとすることを意味している.
この意味でふつうに抑圧とよばれるものは、後抑圧とよばれる.
原抑圧というものがどんなものか、フロイトは必ずしも明白ではない.
ラカンは「象徴的なものをつくりあげる端緒」とみなし、
原抑圧が起きる以前に意識から排除しなければならない経験をすることから精神病が理解される.
いずれにしても、抑圧がどんな心的過程であるかは、抑圧が完成されず、
無意識的なものが意識に現れるときである.
抑圧されたものが症状として現れるだけでなく、日常生活においても、
言い間違い、思い違い、過ち、夢などに現れることをフロイトは示している.
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自由連想 free association
フロイトによって始められた心理療法の技術.
フロイトは、最初催眠による治療を試みたが、期待したほどの効果を得られず、
催眠に代るものとして自由連想を始めた.
すなわち、催眠中に与えられた暗示を被催眠者はすべて思い出すことができるが、
それらが催眠中に与えられた暗示であることを知らない.
こうした事実を基にしてフロイトは患者に
心に浮かぶことを、どんなつまらないことでも、言いにくいことでも残らず思い出すようにさせた.
こうして自由に思い出させると、その中に症状の元になっている心理的葛藤に行き当たることを見つけた.
しかし、経験を積むにつれて、自由に思い出すことは非常に困難で、
自由に思い出すことを妨げている諸条件こそが明確にされるべきものと考え、
精神分析という用語が使われるようになった.
しかしこれは自由連想が技法として無価値であるということではない.
無意識 unconscious(Ucs)
無意識的という形容詞としての用法は、意味が広い.
自動的、機械的で意識されないこと、注意の範囲を超えているために気づくことのできないこと、
思い出すことのできないことを意味する.意識されないものをすべて無意識的という.
フロイトの場所論(topographical viewpoint)によると、
心的装置は、
意識系、前意識系、無意識系のそれぞれの系からなり、名詞的に使われる.
無意識の内容をなすものは、
意識に入り、とどまることのできない抑圧された観念である.
この意味では、無意識は抑圧されたものと同義になる.
しかし、抑圧は系統発生的に考えられるところからいえば、
抑圧されたものと言い切れないところもある.
後年になって、心的装置は、
エス、自我、超自我の系として考えられるようになるが、
ほぼ無意識はエスに対応する.
しかし、自我、超自我は前意識、意識に対応するものではない.
無意識は現実に対する配慮を欠き、快‐不快の原則にしたがう系として考えられ、
抑圧された観念は相互に自由に置き換えられ、圧縮されたりするし、
時間を持たず、破壊されるものでもなく、一次的過程としての特質を持っている。
これを比喩的にいえば、
抑圧された観念の結合によってつくりあげられる空想的小説の筋書きとしての骨子を
つくりあげているものである.
心理学で一般に使われているシェマと同じ構造を持つものとみなされる.
無意識のシェマをもとにして個々によって異なる無意識的小説が書き上げられているということができる.
ラカンが無意識は言語のような構造をもっているというときには、
言語について洞察によるところが多いが、前述のような系としての特質があるからである.
ユンクにおいては、個人的無意識と集合的無意識が区別され、無意識は
創造的活動の母胎をなしていると考えられる.
いうまでもなく、無意識は直接に観察されるものではなく、症状や夢を手がかりとして構成されたものである.
その意味で夢は無意識を知るための王道であるといわれる.
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二重人格 dual personality 多重人格 multipule personalities
突然に人格が変化して全く異なった人格を持つようになるが、すぐもとの人格に戻る.
全く別個の社会的役割を演ずる.
それほど事例は多くなく、ジキルとハイドは小説化された二重人格の例である.
分裂病とは区別すべきものである.
ヒステリー患者が病人と同じようにふるまうのと同様に、抑圧と遊離の防衛的メカニズムが主軸をなしている.
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夢 dream
『夢判断』公刊(1900年)以来、
フロイトの夢分析の研究は、精神分析の基礎的資料として使われるようになった.
基本的には抑圧された願望を充足させ、
覚醒によって睡眠を中断させないようにする機能をもつものと考えられた.
これに対して、1953年以来、
クライトマンの指導する睡眠の研究によりREMSの発見以来、夢の実験的研究が行われるようになり、
夢の研究は大きな飛躍をしてきた.
ふつうわれわれが夢とよんでいる視覚的表象はREMSにおいて見るものであり、
入眠時、あるいは覚醒時に見る視覚的表象、あるいはNREMに見る夢とは区別されている.
こうした研究からいえば、フロイトの夢の理論はそのまま実験的に確証しうるものとは考えられない.
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夢の仕事 dream work
無意識的な思考法は、フロイトのいう一次的過程で、現実での合理的・意識的な思考様式とはかなり異なる.
さまざまな思想内容が圧縮されたり、置き換えられたりする.
例えば、
A,B,Cの3人の特徴がAに凝縮され、A
はBのような着物をつけ、Cのような言葉遣いをしたりするようなものである.
こうした一次的思考様式は漫画などにも使われている.
置き換えは、父を憎んでいるときに、父親の洋服を汚すというように、
部分的表現によって全体を暗示しようとするものである.
さらに潜在内容は、以上のような夢の仕事によって視覚的、あるいは聴覚的イメージに変容されるが、
それらのイメージは個々ばらばらで統一性をもっていない.
これをまとめ、一つの物語につくりあげるのが、二次的加工(改訂)(secondary elaboration)である.
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夢の分析 analysis of dreams
精神分析においては、自由連想の分析と同時に夢の分析が行なわれる.
思い出された夢の順序に従い、個々の内容について自由連想をしていき、
夢全体の統一的な解釈が行われる.しばしば象徴的解釈が利用される.
例えば、
ナイフ、鉛筆などのように尖ったものは、男性性器を象徴することから、.そこから夢の解釈は容易になる.
しかし、常にとがったものが男性性器を象徴するとはかぎらない.
個人の過去経験のいかんによって、その象徴的意味も異なるので自由連想によって意味は明らかにされる.
性的倒錯 sexual pervesion
幼児は性的に分化していないため、性的欲望は不定で多面的であり、
特定の対象と特定の目的をもたない性的関係が結ばれるとみなされ、
成長してもこの傾向が保たれていることを性的倒錯という。
性的倒錯は、この幼児的願望を満たそうとするものであるのに対して、
神経症はその願望を退けようとするものであるとフロイトは解した。
性的倒錯とみなされるものは、
相手に攻撃を加えて苦しめることによって満足をえ得ようとする加虐性愛、
自分を苦しめることによって満足を得ようとする被虐性、
同性愛、口唇と性器の接触を求める口腔性交、肛門による性行為、
動物との性行為、子どもとの性行為によって性的満足を求める愛童症、動物愛玩症などがある。
自我 ego
自我という概念は、最も広範囲にわたる意義を持ち、根本的には、
人間とは何かという問題に答えようとするときの中心的な概念である.
したがって、自我をどのように考えるかが、心理学の理論の基本となる.
生物学的、行動主義的な研究者は、自我という概念はあまり用いず、個体とか人という概念を使い、
人間を社会的存在としてみようとするときは、役割、態度という概念を重視する.
精神分析的、哲学的な理論を組み立てようとする人たちは、
好んで自我という概念を使う傾向がある.
しかし、自我の概念は一様ではない.もっともあいまいなのは自我と自己の概念である.
もっとも一般的には、自我は主体とみなされ、自己は客体とみなされる.
これは、見る自分と見られる自分、反省する自分と反省される対象となっている自分
を区別するものである.
経験される対象となっている自己のことを現象的自己という.
この意味で経験する主体としてのは超越的自我といわれる.
自己については感じ、知ることができるが、自我については知ることができないことを意味している.
しかし、自己と自我がいつもこのように区別されているとは限らない.
同じ研究者でも、自我を全く違った意味で使うことがある.
フロイトの場合、
自我衝動というときの自我は生物的個体の意味をもち、
自我リビドーというときは客体に対する主体の意が強い.
しかし、場所論で超自我とエスに対する意味で自我という用語を使うときには
心理的機能のことを示している.
自我の形成、発達についてもあいまいである.
あるときにはエスが発達的に分化して自我が考えられるかと思うと、
同一視によって自我が形成されるとも考えられる.
レヴィンにおいては生活空間があたかも自我であるかのようにみなされるが、
その上に自我が追加され、理論的には不明確な概念となってきている.
このような混乱が起きてくる根拠は、基本的に主体と客体とを分けて考えようとするところにある.
そこでもともと主体と客体の区別はなく、主体は客体であり、
客体は主体であるという考え方がつくられる.
ラカンの鏡像段階の概念はこうした考え方を端的に示すものであり、
フロイトの同一視の考え方を展開したものといえる.
自我はイデオロギーの産物に過ぎない幻影とみなされる.
(幼児期や思春期にはイドの衝動が強く、自我はあまり強くなっていないので、
イドや超自我との間に葛藤が生じてくる.アンナ・フロイトは特に自我の防衛機能について論じ、
フェレンツィは自我の発達について詳細な記述を試みている.
ハルトマンはフロイトが不明確なままに残していた自我機能を明確にしている.
すなわち、フロイトは前述の自我の意識的機能については初期に簡単に触れただけで−夢の分析−
それ以後あまり普及しなかった.
そのため、自我はもっぱら不満や葛藤から形成されると考えられやすかったが、
葛藤とは関係なく自立的機能を持っていることを強調している.
この考えは、ピアジェなどの知的発達の考えと軌を一にするものである.
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エス(Es独) イド(id=it)
グローデックによって導入された精神分析の用語.
外国語の三人称の代名詞には、雨が降るというとき it rain というように、
雨を降らせる主体の意味がある.
考えると言うとき es denkt in mir のようにエスが考える主体として使われる.
こうしたことから、sん認証の代名詞(ラテン語でイド)は
行動を起こさせるものを意味するようになった.
フロイトは人の全体構造を考えるとき、それを三つの部分、すなわち
イド、自我、超自我
に区別し、
イドは全く無意識的な心的エネルギーの源泉と考えた.
本能的衝動と呼ばれるものは、このイドの重要な部分である.
このほか幼児期の体験から作られてきた願望も総べて含まれる.
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タブー taboo
禁忌の意.
語源はポリネシア、ミクロネシア、メラネシアの言語にあり、探検家クックが英語に導入したといわれる.
語源的には禁じられたもの、触れることのできないものを意味する.
トーテミズムの社会に見られる風習で、特定の人、動物を避けること、事物や場所に近寄らないこと、
特殊な行為を避け、特定の言葉を使わないようにすること、
これらは総べての人に適用されることもあるし、特定の個人にのみ適用されることもある.
常時守らなければならないものもあるし、特定のときのみ守らなければならないタブーもある.
これを守らないと、災い、危険がその人や社会起きると信じられている.
タブーに触れると清めの式が必要となる.文明社会においても類似の現象が見られる.
タブーに基づく真理的葛藤のため神経症が起きる.
タブーは触れることのできないという意味で神聖なものを意味することもある.
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トーテミズム totemisim
トーテムの信仰のことを言う.トーテミズムは宗教的信仰を具現するものであったり、
魂の危機を救うものと考えられる.
あるいは単純に氏族を区別するための記号に過ぎないこともある.
トーテム totem
アルゴンキアン族(北米の土着インディアン)の語で守護神の意味をもつ.
彼等の信仰によると、トーテムと呼ばれる動物、植物、自然物(石など)は、
自分たちと近親の関係を持っていると考えたり、トーテムを自分たちの先祖とみなしている.
ある部族では思春期に薬物による幻想や夢の中に現れるものを個々人のトーテムとみなしている.
オーストラリアやアフリカでは氏族のトーテムがあり、それを殺して食べることは禁じられている.
氏族の名前や紋章としても使われる。
このような信仰はヨーロッパ、アジアでも認められる.頭が動物をかたどった神がそれである.
宗教心理学
宗教心理学はゴールトン、ヴント、ジェームズら多くの心理学の先達たちの関心を引き、
すでに心理学の重要な応用分野であった.
宗教は、態度や信念の発達、不安や罪の意識の発生と解消、
パーソナリティの急激な転換あるいは統合過程の発達、認知と動機づけの関連、
といった基本的な心理学的過程に、豊富且つ劇的な事例を提供するからである.
比較的最近の宗教に関する心理学的研究としては、
因子分析などの方法による宗教のの一次元性の問題に対する論議、
公的・社会的に制度化され公式化された宗教対私的・個人的な態度ないし価値としての
主観的な宗教の問題、パーソナリティ特性や保守的な社会的態度と宗教との関係などがある.
ジェームズ以来の神秘説や回心といった強い情動的宗教経験に対する心理学的関心も、
依然として持続している.
東洋思想への関心の増大とともに、ヒンズー教、禅などの心理学的研究も行われている.
ナルシシズム narcissism(自己愛)
エコーの愛を拒絶して水面に移った自分の姿に見とれ思いを寄せたナルシスを語源にした造語.
リビドーが外の対象に向けられず、自分自身の姿に向けられるもの.
同性愛では異性の愛を拒絶し、同姓の愛を求めるが、
この同性は自分自身の姿に似たものであるという意味で自己愛に基づく対象選択である.
誇大妄想を持つ精神病では、
外の対象に向けられていた対象リビドーは、自分に向けられる自我リビドーとなる.
もともとは自我リビドーが根源的なもので、
ちょうど下等動物が偽足を出して外の対象と接触し、
必要に応じて偽足を体内にしまいこむのと同様に考えられる.
そのため、対象リビドーを内にしまいこんだものを二次的自己愛といい、
根源的な自我リビドーにもとづくものを一次的自己愛という.
発達的には、自体愛に特別な心的作用が加わり、自己愛に発展すると考えられる.
この特別な心的作用は同一視とみなされる.
自体愛においては自我が成立していないが、他者との同一視によって自我が成立することによって、
自分の身体でなく自分の自我を愛するようになる.
ラカンの発達的段階としての鏡像段階は、この同一視を考慮しようとするものである.
自己愛は自分のことだけに関心を示し、他人に対する配慮を欠くてんでは利己主義と似ている.
自己愛を傷つけられると激しく怒り、あまり自己愛が強いと羞恥心が強くなる.
発達的には、自己愛を喪失することにより、その代理として自我理想がつくられれてくる.
自我リビドー ego libido
フロイトの用語
神経症の治療から精神病の治療に眼が向けられるとき、精神分析に自己愛の考え方が導入され、
リビドー自我リビドーと対象リビドーに分けられる.
自己愛においては、まずリビドーは自我に付着しているものと考えられる.これを一次的自己愛とよぶ.
すなわち、リビドーはまず自我に付着しており、後になって対象に向けられる.
これを対象リビドーという.対象に付着していたリビドーが再び自我に向け変えられたときは、
二次的自己愛が起きると考えられる.
これは精神病の誇大妄想、ヒポコンデリーなどに顕著に見られるものである.
自我リビドーが大になれば、それだけ対象リビドーは小さくなる.
対象リビドーが大きくなれば、それだけ自我リビドーは小さくなる.
フロイトの理論構成から言えば、字がリビドーと自我衝動は全く異なるものであるが、
自我という概念の曖昧さから、混同される危険性がある.
自我がリビドーの貯蔵庫であるかのように述べられることもあるが、
さまざまな誤解の元にもなる.
エロス eros
ヘシオドスによって最初に記載された最古の最も強大な神.
無秩序の中から調和のとれた秩序を作り出す.
その後、性的な愛の神とみなされ、
献身的、非性的な愛アガペー(Agape)あるいはカリタス(Cartas)に対立するものとみなされる.
フロイトの後期の衝動論では、
エロスは死の衝動に対立するもので、性的衝動よりも包括的で自己保存の衝動をも含めた意味で考えられる.
転移(感情)sference
心理治療が進み、患者が治療者に対して自分の不安や希望などを自由に話すようになってくると、
患者は幼児期に親などに対して抱いていた無意識的な感情や葛藤を治療者に移すようになってくる.
すなわち、患者は幼児期の葛藤を治療者との関係で現実的に再経験することになる.
心理治療が成功するか否かは、こうした関係がつくられるか否かにかかっている.
この転移的関係が起きたとき、患者は転移神経症になっているといわれる.
患者が治療者に感情・態度などを転移するとき、正の転移と、負の転移が起きる.
正の転移は患者が治療者に行為や愛情を抱くときである.
このとき、患者は自由に話し、信頼を示し、治療者により沿うように近寄り、
夢の中に治療者が現れたことを報告し、身だしなみを良くするようになり、
他の患者に嫉妬を抱いたり、症状が急になくなったりする.
負の転移が起きるときには、
患者は治療者に敵意を示し、治療が伸展しないことをこぼしたり、
治療者を非難したり、不誠実だといってなじる.自由に話すことができず、夢を思い出して話すことも少ない.
時には治療を中止せざるを得ない状態にもなる.
このような負の転移が起きるのは、治療者が性急に、患者にとって非常に苦痛な事件などに言及したり、
それを話させようとするからである.
治療者は、最初、患者に対して好意を持っていても、治療が進むにつれて、
好意が次第に薄れ、敵意が増大し、患者と面接するのが嫌になってくることがある.
これは反対転移とよばれるものである.
これらの転移的感情は、治療場面のみで起きるとは限らない.日常生活においても起きている.
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転移神経症
フロイトが最初に転移神経症という用語を使ったときには、
精神分析によって治療できる神経症(ヒステリー、不安ヒステリー、強迫神経症)
を総括した意味をもっていた.
現在では治療中に患者が分析者に感情を転移するときのことをいう.
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転移抵抗
分析を受けている患者が点意中に現れようとする感情や衝動のあるものを抑圧しておこうとする傾向のこと.
患者は、例えば、親に対する以前の感情を分析者に転移しているが、その転移感情の中には、
今でも受け入れがたいものがあるから、それは抑圧されなければならない.
例えば、女性の患者が男性の分析者に対してやきもちをやくのは、
彼女の中に父親に対するエディプス・コンプレックスがあって、
性的な関心をあらわに表出し得ないからである.
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精神病 psychosis
一般に精神障害を大別して、神経症と精神病に分ける.
神経症は障害の程度が軽いが、精神病は、その程度の重いことをいう.
神経症と精神病の教会を診断的に明確にすることは必ずしも容易ではない.
幻覚や妄想があるから精神病(分裂病)であるというように、単一な症状からは診断できない.
精神病は、器質的障害によるものと機能的障害によるものとに大別される.
前者は梅毒性の進行麻痺、脳腫瘍、動脈硬化症などに付随して起こる精神病である.
後者は、感情的障害を主とする躁鬱病、思考様式に障害のある分裂病、妄想症などである.
一般に機能障害は体質的・心理的要因によって起こるとされているが、
遺伝や神経内分泌などの影響についてもさまざまな研究が行われている.
フロイトは神経層と精神病の違いを次のように理解した.
「神経症」
衝動(イド)が抑圧されるとき、抑圧された衝動は意識に浮かび上がろうとする.
このとき自我はその衝動が元のままの姿で意識に浮かび上がらないように歪曲し、防衛をする.
これが症状となって現れるとき神経症となる.
「精神病」
現実との接触が遮断され自己愛に留まっているが、失われた現実を取り戻そうとするとき、
衝動があまりに強大で自我の防衛を圧倒してしまい、衝動と現実が衝突し、
現実を歪曲するか空想的に破壊するよりほかになくなっているものと考えている.
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神経症 neurosis
神経症は精神神経症と現実神経症に区別される.
精神神経症−恐怖症、強迫神経症、ヒステリーなど
現実神経症−不安神経症、神経衰弱など
もともと神経症は現実神経症のことを意味し、
生理的な機能障害(自律神経、神経内分泌)に由来するものと考えられていたが、
今日では神経症と精神神経症は、ほとんど同じ意味で用いられる.
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パラノイアparanoia(妄想症)
語源的には理性からはずれているの意.
1863年カールバームが被害妄想や誇大妄想などを記述するとき使用した用語.
妄想症は徐々に発展し、強固に組み立てられ、変えることのできない論理的に体系化された妄想を持つ
重い精神障害である.
妄想的な信念を持っているほかは、一般には顕著な異常はないが、
その妄想のため思考様式は大きな障害を受けている.
しかし妄想症と診断される患者はまれで、妄想症に類似の妄想性反応を示すものが多い.
病因としては、心理的に高い野心を持ちながら失敗するため、罪悪感を持ったりする場合、
例えば、
親があまりに高い望みをかけ、権威主義的で厳格な場合など、
その子は妄想症的傾向を発展させていく.
また、異性の親を過度に同一視した子どもなどが、この傾向を示すようになる.
この防衛機制はフロイトによって示されているように、投映が中心をなしている.
妄想 delusion
事実に即さない誤った信念.
ある程度までは誰でも妄想を持つことによって人格的な安定を得ている.
不安に対して自分が強大な力を持っているような妄想は、英雄物語やおとぎ話などに一般に見られる.
これらは自分の願望を満たすように事実を歪曲して情緒的安定を得ようとするものである.
であるから、妄想は理性的思考によって支配されているのではなく感情によって支配されている.
妄想症は体系的に汲み上げられた妄想を持っているが、これは論理的ではなく、感情に支配された防衛である.
一般に欲見られる妄想は、誇大妄想、被害妄想、関係妄想などである.
これらの妄想は外の世界に対して攻撃的であるが、自分自身に対して攻撃的になると、抑うつ的妄想が起きる.
例えば、
自責、罪、貧困などの妄想である.
妄想的人格 paranoid personality
この人格の顕著な特性は、
頑固で嫉妬深く、他人に対し疑い深く不審の念を持ち、挑戦的・攻撃的で、妥協を知らない.
成功心が強く、自分の能力を超えた目標を追求する.
批判を受け入れないか、他人を批判し、軽蔑する.自分の優れたところを顕示しようとする.
権力の座につけば専制的になる.
防衛機構としては投映を利用しやすい.
例えば、
わたしは彼が憎らしい、という代わりに、彼はわたしを憎んでいるから、
たしが彼を攻撃するのは正当であるというように、自分の敵意や攻撃を他人にかぶせる.
こうした人格的特性は、これ以上に発展しない限り、病的とはいえない.
が、抑圧された同性愛などがもとで精神病にも発展する.
また、科学や芸術などで貢献するような仕事をしうることもある.
ダダイズム Dadaism
第一次大戦中、チューリッヒには合理主義を嫌悪する厭世的な気分が満ち溢れていた.
そこでは、そんな気運に対応する反芸術運動を展開しようとするた人びとがいた.
1916年、T.ツァラ(ルーマニアの詩人)は、辞書に無作為にナイフを突き立てた.
するとその刃先は「ダダ」という語に刺さっていたといわれる.
(dada=木馬−仏語,相槌−スラブ系言語)
これ以後、ツァラがバルやアルプらと創始した「ダダ」は、
明確な根拠を持たない、反芸術的な文芸運動として始まった。
その影響を受けた造形作家たちは、アサンブラージュ、コラージュ、フォトモンタージュ等の
技法を駆使し、造形作品を発表した。
(造形運動としてのダダはパリのみで、20年代以降はシュルレアリスムに継承された))
シュルレアリスム Surrealism
(超現実主義)
第一次世界大戦と第二次世界大戦のはざまで広く展開された総合芸術運動.
「シュルレアリズム」は1917年、詩人アポリネールが、
自作の戯曲の装置を担当したピアかその舞台美術を指していった言葉に由来する.
1924年、ブルトンが『シュルレアリスム第一宣言』において、
精神分析的な考察を加えた「夢の全能性への信頼に基づく」芸術の総称へと採用した。
当初は文学運動としての側面が強かったが、造形芸術にも強い影響を及ぼし、20世紀美術の主流となった.
代表的な作家はダリ、エルンスト(後に除名)、マッソン、ミロなどである.
パリを拠点に活動していた多くの作家は、30年代末にはナチスの台頭によってアメリカに逃れ、
ゴーキーを生み出し、、、終焉を迎えるにいたった.
ウィーン脱出
1938年3月11日、オーストリアの首相シューシュニックが退陣した。すなわちオーストリアがナチス・土ドイツの支配下に入ったということ.フロイトはラジオでそのニュースを聞いた.
3月13日、ヒトラーがウィーンに入る.
3月14日、出版社と家の捜索.
3月22日、アンナがゲシュタポに連行される(一日で戻る)
「この日は間違いなく、フロイトの生涯中もっとも暗澹たる一日であった」ジョーンズ『フロイトの生涯』
※ナチスはフロイトをなかなか手放さなかった.収容所送りにならなかったのも、彼を敬愛する人びとのおかげであった.
■フロイトのウィーン脱出に協力した人々
フランス駐在のアメリカ大使ウィリアム・ブリット
「ウィルソン大統領の精神分析的伝記」の共著者
ルーズベルト大統領と個人的に親しく、フロイト救出の直談判をした.
ルーズベルト大統領は、ウィーン駐在大使ワイリーにフロイトの保護を命じた.
※当時、外国人を受け入れていた自由主義国はフランスだけであったが、フロイトはフランス語が苦手だったこと、精神分析がフランスではあまり受け入れられていなかったことなどの理由で、イギリスに脱出することにした.
アーネスト・ジョーンズ
フロイトの弟子で『フロイトの生涯』の著者.
イギリス政府に働きかけ、フロイトに対して例外例外的な措置をとるよう説得.
マリー・ボナパルド
ナポレオンの弟リュシアンの曾孫、ギリシャ国王の弟の妻、デンマーク王室の一員.
1925年精神分析を受ける⇒精神分析学者となる⇒フロイトの最も忠実な弟子.
⇒フランス精神分析学界の重鎮となる.エドガー・アラン・ポーの研究と女性の性に関する研究がある.
※彼女は精神分析出版社が倒産しかけたときにも借金を肩代わりした.
フロイトの亡命に際しても、ヨーロッパの書く王室へと網の目のように広がるコネを最大限利用して
ウィーンに自由に出入りし、フロイトの所持品の持ち出しに手を貸した.
※ゲシュタポの再度の襲撃を防ぐため、ドアの前で自ら見張りにも立ったと伝えられている.
ドロシー・バーリンガム
フロイト家の階上に住んでいた協力者でニューヨークの宝石王ティファニーの娘.
アメリカ大使館やジョーンズと密接に連絡を取りながらフロイトを守った.
※後に精神分析に共鳴し、やがてアンナ・フロイトとレズの関係になり、生涯を共にする.
■ロンドンへ
出国許可が下りたのはヒトラーがウィーンにやってきた三ヵ月後であった.
(最初に、ミンナがドロシーに付き添われて出国.続いて
長男マルティンとその一家、長女マティルデとその夫、フロイトの末弟アレクサンダーとその夫人)
6月3日、フロイトは妻、末娘アンナ、家政婦、医師とチャウチャウ犬リュンとともに、パリ行きのオリエント急行に乗りウィーンを脱出した.
パリのボナパルド家出休憩し、また汽車に乗り、船で海峡を渡りロンドンに辿り着いた.
(ウィーンにはフロイトの妹たち4人が残ったが、その後ユダヤ人収容所で殺された.)
フロイトの死
82歳のフロイトはロンドンで31回目の癌手術を受け、3週間入院した.
11月には分析治療を再開し、一日に4人づつ患者を診た.
1939年初め、癌が再発し、もはや手術は不可能.フロイトは日に日に衰弱していった.
フロイトは、かねてから主治医のシュールに安楽死の約束を取り付けていた.
シュールは、アメリカに旅たつ間際の9月22日モルヒネを注射した.
フロイトは9月23日意識不明のまま息を引き取った.
エピソード−フロイトと男たち
解剖学者カール・クライス
ウィーン大学医学部のときの教授.
フロイトの興味はもっぱら生物学で、比較解剖学者カール・クラウスの研究室に入った.
クラウスは、フロイトがお気に入りで、奨学金をもらえることになったのも、
ウナギの研究で成果をあげられたのも彼の存在があったからだということです.
(しかし、フロイトの自伝にはクライスの名前は登場しない.)
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エルンスト・ブリュッケ
ウィーン大学医学部の教授.−ドイツから招聘
フロイトはブリュッケを父親のように慕ったが、ブリュッケのほうは厳格で指導者としての立場を守った.
フロイトはブリュッケを父親のように恐れてもいた.
フロイト「わたしに影響を与えた最高の権威」
フロイトの4番目の息子はエルンストと命名されている.
ヨゼフ・ブロイアー
ブリュッケの研究室でしりあった.
裕福で、教養があり、医師としても成功をおさめた生理学者.
『ヒステリー研究』はブロイアーとの共著.
フロイトはブロイアーの家に頻繁に出入りし、ブロイアーから何度もお金を借りた.
しかし、ブロイアーは一度も返済を要求しなかった.
フロイトは、ヒステリーの原因は性的であると考えていた.しかしブロイアーは「しかし」と、、、
ブロイアーは「しかし」というデーモンに取りつかれている、というのがブロイアーの口癖だった。
よく言えば慎重、悪く言えば優柔不断で、、、
それが、フロイトとの決別の原因となった.
フロイトはブロイアーを臆病者とののしり、悪口を言いふらしたそうな.
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ベルリンの耳鼻科医フリースと手紙
フロイトはフリースをブロイアーに紹介された.
その交際は1887年から1902年まで続いた.
フロイトは彼から来た手紙を総べて処分したが、フリースは総べて保存していた.
フリースの妻はフロイトからの手紙約300通をシュタールという画商に売却した.
その手紙を条件付で(フロイトには渡さない)、フロイトの弟子であったマリー・ボナパルトに売りつけた.
彼女は調査のため手紙をウィーンのロスチャイルド銀行の金庫に預けた.
しかしナチスの進攻によって、ユダヤ人の資産やユダヤ人の銀行は差し押さえられた.
幸運なことに彼女はユダヤ人ではなかったため、手紙は無事だった.
(フロイトの著作はナチスでは禁書だったが、見つからなかった)
手紙はパリのデンマーク大使館に送られ、そこからイギリスに送られた.
(船が潜水艦に撃沈された場合も考慮して、浮揚性の材料で梱包され)
1950年、『精神分析の起源』というタイトルで出版.
しかし、このときは284通のうち168通だけだった.(娘アンナの配慮による)
その後、フロイトの遺品の管理を任された、マッソンという学者が公開してしまい、
アンナ・フロイトとの間で訴訟問題に発展した.
結局和解し、1985年フロイトがフリースに送った現存する総べての手紙が公刊された.
なぜ、フロイトやアンナは、それらの手紙を公開したくなかったのか、、、
それは、フロイトはフリースとの文通期間に精神分析理論をつくりあげていったから.
すなわち、フロイトの論文の最初の読者はフリースであり、フロイトは彼に意見を求めていたのだ.
フロイトとフリースは大変よく似ている.
フロイトはフリースにべったりで、他人からは同性愛者のように見えていたかもしれない.
(フロイトの患者にエマというヒステリーと花の痛みと鼻血に悩む女性がいた.
フリースは彼女の手術をしたのだが、、、、その後鼻血は止まらずひどくなってしまった.
フロイトは動揺し、ウィーンの外科医に診せ、切開してみると、なんとそこには、50センチものガーゼが、、、
しかし、フロイトは「あれは君のせいじゃない」と、、、
そして「すべては、あの疫病神みたいな女が悪いんだ」と、、、)??!!??
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フロイトとユング
深層心理学のパイオニアであるユングは、1875年貧しい牧師の息子としてスイスに生まれた.
幼い頃から空想に耽り、白昼夢も見ることがあったらしい.
ユングは心霊現象の研究で学位を取得し、1900年にチューリッヒの精神病院に勤めた.
そこで院長をしていたのが、分裂病の研究で知られるオイゲン・ブロイラーであった.
(精神分裂病、アンビヴァレンツ-相反感情併存、自閉症などは彼の造語)
ブロイラーにフロイトの『夢判断』を読んで他の医師に説明するように命じられたユングは、
深い感銘を受け、他の論文も読み漁り、フロイトの考えを自分の研究に取り入れた.
『早発性痴呆の心理学』(1906年)ではフロイトを引用し、賛辞している.
1906年ユングは自分が執筆・編集した論文集『診断学的連想研究』をフロイトに送った.
この本は、フロイトの自由連想方を実証的に裏付けるもので、フロイトはユングに礼状を送った.
同年、フロイトは神経症理論に関する論文集をユングに送った.
その礼状の中でユングは「わたしはフロイトの擁護者であり精神分析の伝道者です」と宣言した.
こうして二人の交友は始まった.翌年ユングはフロイトを訪ねている.
(そのとき、二人は13時間も話し続けたらしい.)
ユングはフロイトを父親のようにしたい、フロイトはユングを息子のように可愛がった.
フロイトはユングを精神分析運動の後継者にするつもりでいた.
しかし、ウィーンにはすでにフロイトの信奉者たちのグループができており、
1910年に国際精神分析学協会が設立されたとき、フロイトはユングを初代会長に就任させた
ものだから、ウィーン派とチューリッヒ派の対立は激化し、ユングは協会から脱退してしまった.
=1909年のエピソード=
この年、フロイトとユングはアメリカのクラーク大学から講演依頼を受けた.
(フロイトは聴衆からもマスコミからも大歓迎を受け、将来、精神分析がアメリカで栄えることを予感させた.)
出発の前日、一緒に食事をしたとき、
ユング「北ドイツの泥炭地帯で先史時代の人が発掘された」
フロイト「どうして君は、死体にそんなに興味を持つのですか?」と気絶、、、
「君があの話題にこだわるは私の死を望んでいるからだ」
この旅行の間中フロイトとユングは毎日行動をともにし互いの夢を分析しあった.
ある夜ユングは次のような夢を見た.
「彼は古い家の二階にいた.その部屋には見事な家具があり、すばらしい絵が壁にかかっていた.
下へ降りていくと、もっと古い家具があった.彼は家中を探検してみようと思った.
床を調べてみると石でできていた.ある一枚の石板に環がついていてそれを引くと医師板が持ち上がり、
階段が見えた.それを降りていくと岩の中にくりぬかれた洞窟があり、
そこには骨や壊れた陶器が散らばっていた.
原始文化の名残であった.そして人間の頭蓋骨がふたつあった.」
フロイトはこの夢を聞いて、その頭蓋骨が誰のものかということに興味を持った.
フロイト「ユングはその頭蓋骨の持ち主に対して死の願望を抱いているのだ」
ユングはそれは、全くの的外れだと思った.「夢の中に出てきた家は心のイメージであり、
二階は私のイ意識、一階はは個人的無意識、地下は集合的無意識なのだ.
頭蓋骨は人類の祖先のものであり、死の願望とは何の関係も無い」
またフロイトの見た夢について、ユングは、フロイトの私生活のことももっとはなしてほしいと願った.
しかし、フロイト「そんなことしたら、私の権威が危うくなってしまう」と、、、
ユング「フロイトは個人的権威を心理よりも上においている.」とフロイトに幻滅、、、
=神秘主義、オカルトについてユングが聞いたとき=
ユング「神秘主義やオカルトについてどう考えるか」
フロイト「戯言だ」
-ユングは自分の横隔膜が真っ赤に焼けた鉄のように感じた.その瞬間、二人の近くにあった本箱の中で
大きな爆裂音がした.二人は『びっくりして立ち上がった.−
ユング「これがまさに超常現象ですよ」
フロイト「ばかばかしい」
ユング「いいえ、あなたは間違っている.私の言うことが正しいことを証明するために、
しばらくするともう一度さっきと同じ爆裂音がするはずです」
-ユングの言うとおりであった.フロイトは精神分析運動の指導者の地位を奪われることに脅えていた?!
、、、、、のだろう、、、、というのがユングの分析だった、、、
そして二人は決別
ユングは、フロイトの「人間の無意識的欲望は総べて性的なもの」という主張に賛成できなかった.
ユング「心的エネルギーは、もっと広く一般的で『生命力』というべきもので、性欲はその一部にしか過ぎない.
そして、フロイトのいう無意識の下方にはもっと重要な層-『無意識集合的』がある」
フロイトと決別したユングは精神的危機に陥り、そこから抜け出すのに数年かかったそうな.
(フロイトと決別した弟子たちは、ほとんど例外なく精神的危機に陥っている.
ライヒは精神病に、タウスクは自殺した)
フロイトの素顔
=フロイトは子煩悩だった=
フロイトには娘も息子も三人づついた.
フリースへの手紙にも子どものことが頻繁に書いてあったことからわかるように、かなりの子煩悩であった.
でも、ただ可愛がるだけではなく、躾もきちんとされていたようだ.
子どもたちは、それぞれに独立したが、末娘のアンナは独身でフロイトの後継者となった.
=ちゃうちゃう犬を溺愛した=
フロイト「ヨフィが嫌がる様な人間はどこかおかしい」
愛犬ヨフィが気に入らないお客は、フロイトも気に入らなかった.
フロイト「<犬と人間との関係は>一切曖昧なところのない愛着であり、
かくも耐え難い文明の葛藤からはほど遠い生の単純さであり、
それ自体において完結している存在の美しさです.
ヨフィをなでてるとき、しばしば、私はおよそ音楽的な 人間ではないのに、
いつのまにかドン・ファンの一説を口ずさんでいるのに気づきます.
―友情のきずながわれら二人をつなぎ、、、、―」
=フロイトと音楽=
フロイトはピアノが嫌いだったそうな。
-母はフロイトを溺愛しており、9人家族で6部屋の家に住んでいたにもかかわらず、
フロイトだけ自分専用の部屋をもっていた。妹のアンナはピアノが好きだったのに、
フロイトの「ピアノがうるさくて勉強できない」との一言で、
フロイト家からピアノは永久に追放されてしまったらしい。(はやりの蓄音機もなかった)
そして音痴だったらしい。
フロイト「私が歌を歌うと、聴いている人はそれが何の歌かわからないだろう」
(ほんとにわからなかったらしい)
フロイトが知っていたのは数曲のオペラで、器楽曲にはまったく興味を示さなかった
。これはオペラに描かれた複雑な人間関係に興味があっただけで、
音楽に圧倒されたり、自分にわからない感情をもつのがいやだったらしい。
フロイトの妻マルタはオペラが好きだったが、
フロイトは彼女がワグナーの偉大さに聴き惚れているのを横でじっと見ているだけだった。
ある婚約時代の晩のこと、リングシュトラーゼの知覚の国立劇場に「ホフマン物語」を聴きに行くことになっていた。
エリ(アンナの婚約者でマルタの兄)とアンナも一緒に行くはずだった。
しかし、アンナはその4人がパーティに招待されていることを忘れていたのだ。
4人はパーティに出席することにしたのだが、その帰り道国立劇場が燃えているのを目撃した。
(600人が亡くなったそうな)
音楽の嫌いなフロイトは、きっとこれ以後、オペラハウスには行かなかった、、、
=フロイトと文学=
若い頃は、シェークスピア、ゲーテ、をはじめ、ギリシャ・ラテンの古典にいたるまで読み漁った.
が、同時代の文学、特に前衛文学には何の興味も示さなかった.
晩年は、推理小説が好きだった。
お気に入りはシャーロックホームズやアガサ・クリスティなどで、大抵は一晩で読んでしまった。
家政婦
「先生はほとんどいつも犯人が誰だかわかっていましたが、もしそれが違っていると、たいそうお腹立ちでした。
=フロイトとマルタとミンナ=
この三人が三角関係であったか、なかったか、未だ謎のままである.
(マルタはフロイトの妻でミンナはマルタの4つ違いの姉、
ふたりともフロイトの妹アンナの夫エリ・ベルナイスの妹)
ミンナは、婚約者(シェ-ンベルクの弟−インド哲学と文学の研究者)がいたのだが、
結婚する前に彼が死んでしまい一生独身で過ごした.
そして1895年から亡命するまで、フロイトの家に同居していた.
マルタは良妻賢母の女性であったが、
フロイトの仕事や学問、思想話についていくだけの知性がなかったといわれている.
その代理を果たしたのが、マルタではなかったのか?!、、、
フロイトとミンナは一度二人きりで外国に旅行している.
(あるフロイト研究者が突き止めた.そして、「堕胎のためだった」という仮説を立てた)
ユング「フロイトの口から聞いた」
(ユングは常に二人の女性を必要としていた)
ミンナの寝室は、フロイトの部屋を通らなければいけない位置関係にあった.
家政婦
「だんな様のところでは明らかに、あらゆることが少しばかり変わっているのだなぁ」
「先生の奥様は、家の外に女ができなければ良いと思っておられたのかもしれません」
「ミンナ様は、電話に出ると必ず、『フロイト教授夫人』と名乗られました」
=蒐集家フロイト=
=写真=
『マリー・ボナパルト』
『ザロメ』
(ロシアの貴族、ニーチェやリルケ、タウスクの恋人、フロイトの弟子であり共同研究者)
『イヴェット・ギルベール』
(ロートレックのポスターになったフランスの歌手)
古代遺物
フロイトは古代遺物を2千点以上も所有していた.そのほとんどは小さな彫像.
フロイトは骨董品を買うと鑑定を依頼し偽者は捨てた.
『イムホテプの像』
(イムホテム-階段状のピラミッドを作ったとされる建築家・治療者・魔術師)
『ホルス神に授乳するイシス女神』
(紀元前600年頃のエジプトブロンズ像.この種の像が聖母子像の原型になったという説もある)
『ヒヒの姿のトト神』
(紀元100年頃のローマのもの.フロイトはよくこの像をなでていた.)
『スフィンクス像』
紀元前4,5世紀のテラコッタ.)
■フロイトの父-ヤコプ(ヤーコップ)フロイトは、村では評判のよくない(他のユダヤ人と同じ生き方をしない)「自由思想家」であった。 ユダヤ教の教会にもいかず、ウィーンから送られてくる変わった本を読み、「この世の不思議は全て科学によって説明できる」と語っていた。そして「世界は将来、理性によって変革され、そこでは総べての人たちが平等になる」と確信していた。フランス革命の自由、平等、友愛を信じて、、、 彼の仕事は、布を織り、それを痴呆の市場で売ることであった。 彼の先祖は、長い間各地を転々ととしていた。かつてはライン河畔のケルンに住み、その後ポーランドへさらにリトアニア及びガルシアに移った。19世紀の初めにオーストリアのモラヴィアに移住したが、そこで、税金を取り立てるのに便利なように、オーストリアの名前をつけることを要請された。素の姓がフロイトであった。 フランス革命の自由、平等、友愛を信じて、「いつの日にか、こんなに転々と移住することはなくなるだろう」と主張していた。 フロイトに対しては、冷たく批判的だった(フロイトいわく) ■フロイトの母はアマリエ・ナタンゾーン.ユダヤ法学者レップ・ナタン・ハレヴィの子孫.ヤコプのよき理解者であった。結婚して5年目にジークムントを出産。 フロイトを溺愛していた。幼少期のフロイトはは母親にまとわりつき、母が出かけると不安だったという。 ■フロイトは生まれつき前髪があった。 フロイトは生まれたとき、青くしわだらけで呼吸も十分でなかった。彼の顔にはふさふさとした絹のような黒髪があった。産婆いわく「生まれたとき前髪のある子は、前髪で名声を得ます。この子は偉い人になりますよ。」 母親は密かにこの老婆の言葉を信じた。父親はため息をついた。(今生活は苦しいのだが、、、) 母親は、息子に偉大で、英雄的な名前をつけるべきと考え、有名なモラヴィアの王で、伝説上の英雄ジークムントに決めた。 ■幼少期のフロイトは、夢をよく見てうなされた。ときには、泣きわめいていえじゅうの人を起こした。彼はよくお母さんの夢を見た。-お母さんがベッドに横たわり、そのまわりを、獰猛なくちばしを持った奇妙な鳥のような男たちが囲んでいた。男たちはお母さんを殺すぞと脅かすのだった- ■フロイトの幼い頃の遊び相手は、母親よりも年上の異母兄エマヌエルの息子ジョン(ヨハン)とその妹パウリーネだった。ヨハンはフロイトより1歳上で、命令従ったが、フロイトはよくさからい、けんかが絶えなかった。 ■知識欲旺盛な少年だった。フロイトは新聞の切れ端から読むことを学び、父が売り上げの計算をする肩越しに計算を覚えた。(フロイトは、6歳になっても小学校へは行かず、家で本を読み、見知らぬ世界を吸収した。) ■フロイト一家はユダヤ教会には行かなかったが、母親はよくフロイトに聖書の話をした。フロイトは、中でもモーセの話がお気に入りで、母親に何度もせがんでいた。 ■フロイトはカルタゴの名将ハンニバル、その父のハミルカル・バルカス、世界を征服するためにブケファロスという白馬に乗って進軍したマケドニア王アレクサンダーなど過去の偉大な英雄たちの物語を好んで読んだ。 そして−自分は誰か高貴で偉大な子孫であるという秘密があるのかもしれない−という夢想をはじめた。 末弟の名前アレクサンダーはフロイトがつけたらしい。 ■10歳のフロイトは、シュペルル・ギムナジウム(中等部)に入学を許可された。そして、頭のいい野心的な子どもたちと競争し、どの学科も1位であった。 (母は、フロイトが勉強部屋を持てるよう広い家に引っ越すことをヤコプに進言し、カイザー・ヨーゼフ街のアパートに引っ越した。そこでフロイトは広い寝室と小さな個室とテーブル・本棚を与えられ、また、他の子どもはローソクで勉強しているのに彼だけは石油ランプで勉強した) ■1873年ウィーンで世界博覧会が開催されたとき、フロイトは両親とアメリカ博を見に行き、リンカーンの演説を両親のために翻訳して聞かせた。 ■ウィーン大学時代、フロイトはめまい(ある種の神経障害)を起こした。医学生の彼は、このめまいの原因を身体的原因から来るものではないと仮定し、何が原因でどうして起こるのか、自分自身を研究材料にして研究した。 催眠術にかかった男の身体的変化(筋肉の硬直、心臓の鼓動や呼吸が変化)とを観察した。 そして、同級生は出て行ったにもかかわらず、ブリュッケ教授の生理学研究室に留まり、ウナギ、カエルおよび魚類の神経系統から、人間に適用できる、何らかの秘密の原理を見出そうと試みた。 ■フロイトの恋愛 大学時代フロイトはフライベルクを訪れ、父の友人の娘と恋に落ちた。−初恋であったよう、、、 ミンナとマルタを会わせたのは、妹のアンナであった。ミンナはきつく鋭くて、しばしばぶっきらぼうに男のように話した。フロイトは彼女に対して、男性に対するような感じをもったそうである。 マルタは冷静でデリケートな少女で、すらりとし、貴族的な顔をしていた。彼女はフロイトの話を聞きながら、裁縫をしながらにこにことしている女性であった。フロイトがブリュッケ教授の助手に任命されれば、エリとアンナと一緒にフロイト家で結婚式が行われる予定であった。↓ ■ユダヤ人のフロイト ブリュッケ教授の助手になるであろうと噂されていたフロイトだが、ユダヤ人であるというだけの理由でそれは実現しなかった。フロイトは医者になることを決心した。(ユダヤ人にはつねに「自分だけでやれる仕事」のみがゆるされていたのである) 結婚を約束していたマルタは、両親から反対されたが、マルタは決心を変えなかった。 ■医者として フロイトはウィーン総合病院に移った。そこには2000人の医療保護患者が収容されていた。ここでフロイトは、神経の異常を専門に扱うようになり、人間のあらゆる種類の悲惨と苦悩に遭遇した。 フロイトはブリュッケ教授によって、神経細胞と他の細胞との微妙な違いを観察することを訓練されたが、彼は診察した患者の微妙な症状をも観察できた。 −死にかけた少年の皮膚の下に出血による褐色のしみがあることに気づいた。この血を押すと、少年の歯ぐきからも出血した。フロイトはこの症状を、えいようしっちょうのために身体のすべての膜組織が破壊したもので壊血病の省令であると診断した。そして、脳の中にも出血があるだろうといった。少年は数日後死に、解剖に回された。死んだ少年の脳膜は破壊されておりフロイトのいうとおり出血の跡が見られた。− −18歳の青年が突然のた打ちまわるほどの痛みを訴えて病院に連れてこられた。フロイトは、ベッドのカバーを取って、自分の指先で軽く青年の腹部を触診した。すると腹部の筋肉は強い反応を起こして隆起した。彼は患者の脚をつかみ、自分の手の上に患者のひざを乗せて、ひざのすぐ下をたたいた。脚はぴんと跳ね上がった。数時間後に同じ検査をやったところ、青年には何の反応もなかった。フロイトはウィーンでそれまでつけたこともない診断名−「急性多発性神経炎」を書いた。つまり、からだのなかの、総べての神経の炎症という病気である。青年は肺炎を併発して死亡、解剖された。結果、炎症で破壊された、赤みが買った灰色のはれた神経が取り出された。 しかし、誤診もあった。 −ひどい頭痛を訴える患者をフロイトは、「慢性脳膜炎」と診断した。しかし一定の経過を持って進行するはずのこの病気はいっこうに進行しなかった。フロイトは自分の誤診を認めた。「私はノイローゼを実際にからだに変化のある病気と誤診した」と、、、 以後、フロイトは、身体的原因の知られていない症状に悩む多くの患者を検討し始めた(ヒステリー、神経衰弱、恐怖症患者等)。他の医者はこれらの患者を笑い、想像による病気であるといい、仮病であるとも言った。 フロイトの心の中には強烈で燃えるような好奇心が引き起こされた。 そして(脳解剖研究所で研究を続け「原因なき」神経症の意味を追求したが、、、)シャルコーの下へ留学を。 ■フロイトとヒステリー フロイトはシャルコーのもとで、ヒステリーという不思議な病気に興味を持った。 ヒステリー患者は、自分のかかっていない病気の症状と同じ症状を示す。彼が観察したのは、麻痺を起こす肉体的器質的理由なしに麻痺を起こしている患者であり、目に何の肉体的障害がないのに盲目になっているものであり、同じく何の身体的原因も照明できないのに、歩くこと、見ること、聴くこと、正しく飲み込んだり消化したりできないというような人であり、また、手足の感覚を失うという奇妙な症状を持つ患者や、奇妙にからだが歪められてしまうような身体的発作の所有者であった。 このような謎の病気は、ふつう泣きじゃくったり、失神したりするヒステリー発作で生じ、そのあとで、からだがふつうに動かなくなるのである。 シャルコーは、ヒステリー患者に催眠をかけてコレラの症状を誘引することを試みた。フロイトは、シャルコーが催眠をかけた女性の患者が、ヒステリーの大発作の症状を起こすのに注目した。この大発作というのはドラマティックなヒステリー発作で、患者は髪を乱し、仰向きに寝ているからだを弓なりにそらし、頭と脚だけを床につけた格好もするのである。 シャルコーの説によれば、催眠もヒステリーも、ともに一種の催眠状態で特徴づけられ、その性質は同様のものである。メスメルは一世紀も前に催眠術で病気の治療を行ったが、シャルコーはこれを治療に用いることができるとは信じなかった。シャルコーの考えでは、催眠にかかりやすいこと自体が一つの病気である。彼はヒステリー患者だけが催眠にかかると主張した。 フロイトはシャルコーが一度に、6人くらいの女性に催眠をかけているのを見ながら、本当にシャルコーは正しいのだろうかと考えた。(催眠を治療の手段として用いることができるのではないか) シャルコーはフロイトに、実際の器質的麻痺に悩んでいるものの症状とヒステリー麻痺を真似た症状で悩んでいるものの症状の差を観察する仕事を与えた。 フロイトは真に麻痺のある患者では、常に身体の広い領域がおかされていることにきづいた。ふつう、脚、腕および顔の片側のしたの部分に症状が現れるが、この理由は、このような場所を支配し動かしている神経の、脳の中の上端が離れ離れでなく、よじれた束になっているからで、そのために出血などによって生じた障害は一つの神経ではなく、多くの神経をお菓子、こうして麻痺が一方の腕とか足とか筋肉の一つのグループに生ぜずに、身体の半分に及ぶことが多い。そして、遠いところ、すなわち、脚よりつま先の方が余計に麻痺しており、腰は麻痺していない。したがって歩くときには、脚は泳ぐような特別の運動をする。おかされていない腰の力で足を持ち上げて半円形に動かすからである。 しかし、ヒステリー麻痺の患者は、実際の麻痺症状を大雑把に真似るだけで、麻痺の正確な知識がないために手足の多々一つとか、一部分だけに麻痺を起こす。身体の遠くにある場所の方が麻痺が少ない。つま先は動かすことができるのに、腰を動かすことができないから、腰と脚で重荷を引きずるように動く。 フロイトはこのように注意深く観察し、研究して二つの麻痺を診断できるようになった。そして、ヒステリー患者に生ずる機能障害の多くの特殊性を研究した。 例−言語は話せるのにある言語の使用を忘れてしまう. 他の知覚はあるのにある音を聞く能力や、ある色を見る能力を失う. 真の麻痺では脳の中に現実のキズがある。しかしヒステリー患者に麻痺や機能喪失を起こさせるのはどんな種類のキズであろうか。フロイトは、この疑問をシャルコーにぶつけた。シャルコーは「ヒステリーの麻痺を引き起こすのはダイナミックな外傷かもしれない」。 フロイトは不思議に思った。−見ることのできない傷がどうして存在するのか。なぜ、実際の肉体的損傷を持たない人々が病気になるのか、、、− フロイトはシャルコーから学び取るものは全て学んだと考え、シャルコーの診断研究をドイツ語に翻訳する許可を得て、パリをあとにした。 ■結婚と開業 パリからの帰途、フロイトとマルタはハンブルグで結婚した。 マルタの持参金でアパートを借り、家具をそろえ、開業した。 そのアパートは「贖罪の家」とよばれる−火事になった国立劇場の跡地に宮廷の基金で建てられた新しいビル−のなかにあった。 1886年、フロイトは神経病の患者の治療を行う容易があることを示す看板を出した。しかし、いかにして身体的原因なしに病気が存在しうるのか、という疑問を残したままの見切り発車であった。 ■フロイトと催眠 フロイトはぺるネームの『暗示とその治療的応用』という本を夢中になって読んだ。 ぺるネームはシャルコーの弟子で、リエボーという医者が催眠によって患者の治療に成功しているのを見つけ出し、それを自分の坐骨神経痛に悩む患者に応用した医者である。(メスメルいらい催眠は無視されていたのだが フロイトは催眠法を、処置なしと考えた自分の患者にやってみたのである。催眠によって患者を眠らせ、催眠状態の間に「醒めたときは、すっかり良くなっていますよ」という暗示を与えた。ほとんどの患者は、この催眠と暗示によって良くなった。 しかし、ある患者は、催眠にかからずフロイトは失望した。ぺるネームのところに連れて行ったがやはり彼女は催眠にはかからなかった。 ■オーストリアの皇帝フランツ・ヨーゼフは、「贖罪の家」で最初に生まれた子ども−フロイトの最初の子どもマチルダ−にプレゼントを贈った。それは王室の工芸品製作所でできた花瓶だった。フロイトの妻はこの花瓶敏がたいそうご自慢であった。 ■若い母親は浮気をしてた? エマヌエルの弟フィリップは、フロイトの妹アンナ(フロイトと2歳違い)の父親ではないか?!? −このことは、後にフロイトが自己分析の過程で再構成した記憶である。 −これら複雑な家族関係が、精神分析を生む一つのきっかけになったとも言われている。 ■フロイト「あの忌々しい塔」−St.シュテファン寺院の尖塔. 「ウィーンは牢獄だった」「でも私はその牢獄を愛していた」-亡命後のロンドンで ■メスメルは金持ちの未亡人と結婚し、大きな屋敷をかまえた。どんなに大きな屋敷であったかは、モーツァルトの最初のオペラ『バスチアンとバスチエンヌ』はメスメルの屋敷内の私設劇場で初演されたことからもわかります。 (前述のオペラには、メスメルの名が出てくる。) ■フロイトは1896年、ウィーンの医師会で「ヒステリーの病因について」という講演を行った。(病因=性的虐待) そのとき彼は「私は一千年以上も前からの謎を解いた。ナイル河の水源を発見したのだ」と自負したのだが、発表を聞いた医師たちは、フロイトを馬鹿にし無視した。彼はフリースに宛てた手紙の中で「やつらはみんな地獄へ堕ちろ」と書いたそうな。 ■日常生活で、私たちは人の名前をうっかり間違えたり、文章を書き間違えたりする。そんなとき、ほとんどの人が「何故、まちがえたのか」を深く考え込んだりしない。しかし、フロイトはそうした“うっかり”の理由を考えた。 あるときフロイトは、自分の持っていた宝石を友人にプレゼントすることにし、それに添えるカードを書いた。ところが、fur(ウムラートが出ませんが、・・・・のために)と書くべきところを、bis(・・・まで)と書いてしまったそうな。これについてフロイトは、「furの繰り返しを避けるために別の言葉を用いたのだ。なぜ、bisという全く意味の違う言葉を用いたのかというと、これはドイツ語ではなく、ラテン語のbis(もう一度の意)であり、同じ語を用いてはいけないという意識があった。」この解釈を聞いた娘は「お父さんが避けようとしたのは単語の繰り返しではなくて、行為の繰り返しじゃないの。前に同じ女性に同じものをプレゼントしたことがあるのでは?!」と指摘した。この指摘を受けてフロイトは「私はその宝石が気に入っていて、本当は贈りたくなかったのだ」という結論に達した。 フロイト流にいえば、ちょっとした失敗も、多くの前提や力動的な決定要因によってなされるのである。 ■フロイトはローマが好きでたびたび訪れ、必ず『モーゼ像』を見に行った。フロイトはその虜になってしまい、それほどの魅力はどこからくるのかを明らかにしたのが、『ミケランジェロのモーゼ像』(1914)。彼はそれを応用分析の雑誌『イマーゴ〕に匿名で発表した。あれほどの自信家フロイトもきっと自信がなかったのでしょう。 フロイト「ミケランジェロは、あえて聖書の記述に逆らって歴史的・伝説的なモーゼより一段上のモーゼをつくりあげたのだ。そうすることによってミケランジェロは、モーゼ像に何か新しいもの、超人間的なものを織り込んだのだ。この石像の巨大な肉体力に満ち溢れた筋肉の全体は・・・・・人間のなしうる最大限の精神的行為を表現している。」 ※モーゼはエジプトから民を救い出したのですが、その彼等が偶像(黄金の子牛)を崇拝し、いけにえを捧げているのを見て激怒しました。フロイト以前の美術史家たちは「ミケランジェロは、怒りを爆発させる直前のモーゼを描いた」と解釈していたのです。しかし、フロイトは「ミケランジェロは怒りを鎮めようとしているモーゼを表現しようとしたのだ」と解釈しました。 ■フロイトは、精神分析という武器を携えて、謎多き人物−レオナルド・ダ・ヴィンチの謎に挑戦した。(〔ダ・ヴィンチの幼児期の記憶』1910−精神分析的伝記) −「どうやらわたしは最初から禿鷹に関わる運命にあったようだ。まだ揺りかごの中にいた頃、一羽の禿鷹が舞い降りてきて、尾で私の口を開き、私の唇を何度もその尾で突っついたのだった。」−レオナルド ※禿鷹は鳶の誤訳であることが判明している。 −フロイトは↑を、記憶ではなく後年の空想だと確信した。「尾は男根の象徴であるから、この場面はフェラチオを表している。なぜなら禿鷹は古代エジプトでは「母」を表す象形文字であった。しかも古来、禿鷹には雌しかおらず、風によって解任すると信じられていたので、キリスト教の伝統では処女懐胎の証拠として盛んに引き合いに出された。レオナルドはそれを知っていたに違いない。禿鷹には召すしかいないということは、レオナルドには父親がいなかったことを意味している。そしてレオナルドは、この母親への愛着から同性愛者になった。しかしレオナルドは性的なことにはほとんど興味がなかった。」− −一部の同性愛者はあ、母親と一体化し、その一方で、自分に似た男を愛の対象に選び、かつて母親が自分を愛してくれたように、その男を愛する。−幼児性欲理論 ※レオナルドは私生児として3年間過ごし、父親の再婚相手に育てられました。 そして彼の弟子は美しい少年だけだったそうです。 ■『モナリザの微笑み』−その微笑みは「レオナルドの中でまどろんでいたもの、遠い記憶を呼び覚ましたからではないか」 ※この絵は完成せず、生涯レオナルドはこれを手元においていました。 ■フロイト「私はタロック中毒だ」 毎週土曜日の大学での講義の後、フロイトは友人の家でタロック(カード)に興じていた。 ■フロイトはおしゃれだった 英国製のツィードのスーツを着こなしていた。また、毎朝床屋を家に呼び髪と髭を切りそろえさせた ■フロイトは「きのこ狩り」に異常なほど情熱をもやした。 ただし、妻はフロイトのきのこに対する知識を信じず、料理には使わなかった。 ■フロイトは鶏肉とカリフラワーが嫌いだった。 好きな食べ物は、アーティチョーク、ゆでた牛肉、タマネギを添えたローストビーフだったらしい。 (料理にはあまり関心がなかったらしい。) ■フロイトは一日20本の葉巻を吸っていた。 「煙草をやめるくらいなら早死にした方がましだ」 63歳のときに顎に癌が発見され、喫煙と癌との関連も知りながら、最後まで葉巻はやめなかった。 しかし、アルコールはほとんど飲まなかった。 心理学ファイル目次 |
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